sora-0812の日記

わたし、捨て子なんです(^^;)

呪縛から解けるために

奴隷だったわたしへ

 

 

母に褒められようとたくさんの努力したよ。

小学生一年生の時から、掃除機や雑巾がけ、

靴洗い、お風呂洗い

母に教えられたように、がんばってた

 

でも、

怒られた。

 

『これで洗ったって言えるの!まだ汚い!もう一回やり直し!』

 

せっかく褒めて貰いたくて、必死で頑張ったのに、

 

怒られて、雑巾やタワシを投げつけられる。

 

一番悲しかったのは、靴洗い。

寒い冬、バケツに水を入れて、外で洗う。

白い生地の上靴は、どれだけ頑張ってタワシで擦っても、白くならない。

 

力もないし、

霜焼けで手は真っ赤で痛くて、

泣くしかない、

 

じゃあ、また怒られる。

 

掃除機も、タンスの裏のホコリが落ちてるのを見つかって、怒られた。

 

掃除機の棒

 

わたしを叩く道具

 

わたしを叩くと手が痛くなるから、って掃除機の棒を使うんだ、と父に話してた。

 

 

『習い事』

 

わたしは、大おばさんの家にいたときに、オルガンを習わせて貰ってた。

 

おんちゃんが、オルガンを買ってくれて、わたしが大阪に来る時に一緒に運んでくれた。

毎日、弾いていた。

母がいると、『うるさいから止めなさい!』って言われるので、

母がいないときにこっそり弾く。

 

でも、数ヵ月後には、そのオルガンはなくなった、

誰かにあげてしまったようだ、

 

オルガンを続けて習いたかったわたしに、

母は、習字を習わせた。

もちろん、続かず、3日で辞めた。

 

『あんたは何をやっても続かない3日坊主!』

とののしられた。、

 

 

学校のクラブ活動に入るとき、バレー部に入りたい、と言うと、

『卓球にしなさい、就職にも有利だから、』

と言われた。

 

 

わたしの人生のすべてを、この母(偽母)に支配され生きてきた。

 

 

友だちも、高校進学も、就職も、結婚も、

 

 

わたしが選ぶことは、すべて否定された。

大切な友だち、彼、そして自分が思い描いた夢、

 

全部捨てた、

 

母に褒めて貰いたくて、

 

それでも、母はわたしを褒めることは一度もなかった。

 

 

 

 

 

今、振り返ると思うこと、

 

わたしの50年間、この母の言い付けを守り、機嫌を損ねないようにするために、

 

生きてきた。

 

 

じつは、まだ、

この呪縛から解放されてない、わたしがいます。

 

この母(偽母)から、

離れて、2ヵ月…

いまのところ、連絡は途絶えていますが、

 

気にならないことはない、わたしがいます。

 

わたしの、心は、

この母(偽母)から、自分で考えることや、

決定すること、

思い通りに生きることを

 

抑制され続けてきました。

 

 

 

 

もう、なんでも自分でやってもいいんだよ。

もう、なんでも自分で決めてもいいんだよ。

母の言い付けなんか、守らなくてもいいんだよ。

母を棄てても良いんだよ。

 

 

この人は、偽物だったんだからね、

 

 

わたしの心へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの生い立ち⑤

別れ

 

今思い出せば、

小学校一年生~四年生まで、

たった3年間

わたしの父になってくれた人。

 

 

顔は、うっすらだけど、覚えています。

ジャッキーチェンに似てたかな。

父も意識して、映画に連れてってくれたり、ヌンチャク買ったりしてたなぁ、

 

 

前の記事にも書いたけど、

母のように、

わたしを叩いたり、虐めたりすることはなかった。

いつも、こっそり助けてくれてた。

 

でも、母の方が強すぎるから。

父は小さくなってた。

 

 

二人で居酒屋をするようになり、

母は昼間は、病院に働き、夜はお店で働いていた。

父も同じように、昼間は調理師として他のお店で働き、夜は自分のお店で働いていた。

 

 

でも、父が昼間の仕事を辞めたようで、

自分のお店を、昼間もランチ営業することにした。

 

母は、これには反対だったみたいで、喧嘩が絶えなくなってた。

言い合いではなく、一方的に父が怒られている感じだったが…

 

わたしは、父が可哀想で仕方なかった。

怒られている姿、

わたしと同じだったから。

 

でも、助けることはできず、

心を痛めるしかなかった。

 

母は、苛々をわたしにもぶつけた。

この頃、家にほとんど帰って来なくなった。

 

夜は、いつもひとりぼっち。

 

学校から帰ると、

2DKのマンションの、食卓の机には、冷めたおかずが一品だけ置いてあった。

 

それを食べて、テレビを見て

時間がきたら一人で寝る。

 

朝、起きると

誰もいない。

 

誰かが帰って来ている形跡はあったけど、

朝方に着替えに帰ってきただけだと思う。

 

こんな日が、半年くらい続いていた。

 

夜は怒られて、外に放り出されることはなくなったのは、よかったけど、

孤独

 

寂しかった、

 

他のおうちの子供が羨ましかった、

 

 

そんなある日、

 

学校から帰ると、父の荷物がすべてなくなっていた。

 

それに、タンスも、冷蔵庫も、

 

わたしは、何が起こってるのかわからず、立ち尽くした。

 

ガランとした部屋に座布団が、1枚だけ残っていた。

その座布団を、胸に抱いて大泣きした。

 

 

どれくらい時間が経ったかわからないが、

一人でどうすることもできず、

 

 

学校の担任の先生のところに、走って行った。

先生が、家まで一緒に来てくれた。

 

そして、一緒に泣いてくれてた。

なぜ、泣いてくれたか、覚えていない。

でも、その女性の担任の先生は、わたしの家のことを以前から気にかけてくれてたんだと思う。

学校では、厳しく怖い先生だったけど、心が温かい人だったんだと、今は思う。

わたしを助けようとしてくれた唯一の先生だったと思う。

 

 

この後、先生は、母へ連絡してくれたと思う。

母が、飛んで帰ってきた。

 

そして、先生に対してすごく怒ってた、

『人の家庭の中まで、首を突っ込むなんて、非常識じゃないんですか、』

と怒鳴っていた。

 

その後のことは、覚えていない、

たぶん、わたしは辛すぎて、記憶を消したのだと思う。

 

 

その先生は、その後、

学校からいなくなった。

 

 

母が怖い

 

わたしの生い立ち④

『河童』

 

わたしは、生まれた時から、髪の毛が太くて多い。

 

母は、細くて少ない。

今は、ほとんど毛が残っておらず、禿げていて、かつらを使用している。

 

 

余談だが、

夫も髪が少ない。

 

そんな夫から、

『最近、髪が薄くなってないか?』と言われていた。

しかし、髪が少ない夫は、わたしの髪が羨ましくて、異常に反応してるんだ、

 

と思って、あまり気にしていなかった。

 

でも、あんまりしつこく言われると、気になってくる。

お風呂場の脱衣室を見ると、床が白いせいもあり、長い抜け毛が目立って増えているように思う。

 

それもあって、よく見ると、

わたしの抜け毛が確かに多くなっている。

 

年を重ねると、母親に似てくる…

 

たしかに、周りを友達を見ていると、

どんどんお母さんに似てきている。

 

わたしもヤバいかも、と思い始めていた。

 

でも、それは

違ってた。

そもそも、わたしと母は、

赤の他人だから、似るわけない、

 

 

子供のころを思い出す。

 

母は、わたしの髪が延びるのを、異常なほどに嫌った。

 

お友だちは、髪を延ばして貰って、三つ編みしたり、編み込んだり、

可愛いリボンをつけて、すごく可愛かった。

短髪の子もいたけど、おしゃれなカッコいいカットして貰ってた。

 

わたしは、

 

『河童』

 

男の子たちに、虐められた。

 

みんなから、『河童』と呼ばれる。

 

母がハサミを買って来て、家で散髪される。

いつも、泣いてた。

切りたくない、

みんなから虐められる、

 

前髪は、眉のずっと上で、まっすぐ切られて、

横も後ろも、跳ね返るくらいの長さで、

まっすぐ切る。

 

ほんとに、誰が見ても

 

『河童』

 

母に、虐められるから、切らないで欲しい…

と、泣いて懇願したことがあった。

 

それでも、切られた。

 

『自分で、手入れできないんだから、こうしといたら、清潔なんよ』って。

 

わたしの顔を見て

泣いてるわたしを見て

 

笑ってた、

 

 

鬼、

 

 

大人になったわたしは、髪を延ばした。

長くながく、

ストレートパーマあてたり、

ソバージュしたり、

染めて、メッシュ入れたり、

いろんなことした。

 

 

そして、絶対に髪を切らなくなった。

 

母への恨み、

 

 

今は、バッサり切りました。

 

おばさんになりましたから、

手入れも大変ですし、

 

 

少しづつ、心が穏やかに整理されてきてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの生い立ち③

優しくしてくれた方々

わたしの今があるのは、

わたしを助けようとしてくれた優しくて温かい心を持った大人の方々がいたお陰です。

今日はそのことを、思い出して書きたいと思います。

 

 

 

義理の父②→ 2番目のわたしの義理の父

 

わたしが、滋賀県の大おばさんの家で、生活している頃

(たぶん、4~5才の頃ぐらいだと思う)

 

母(偽母)と、一緒に時々、わたしに会いに来ていたと思う。

 

あんまり、覚えていないけど、

優しくしてくれた、おじさん…

お菓子もくれたような、、うっすらしか覚えていない記憶、

 

子供のころのわたしには、感心の薄い人だった。

 

でも、そんな人が、

 

小学校に上がる時、父となり、『パパと呼びなさい!』と、母から命令された。

 

鬼のような母から言われることは、絶対命令。

子供の時の、わたしは、この母の命令に従うしか、生きていく道はなかった。

 

(わたしのインナーチャイルドみゆきちゃん』は、感情を捨てて人形になってたね。

大おばさん夫婦が買ってくれたリカちゃん人形と、レゴブロックを、大切に大切にしてた。

ひとりでいつも遊んでたね、

何時間も何時間も、想像の中で遊んでた。

そこには、優しいパパとママがいたから、

現実逃避できてたんよね。)

 

 

義理の父②は、調理師をしていた。

九州から大阪に上京して母と知り合ったみたい。

初婚。優しい人。

母と同じで、お酒もギャンブルもする人。

 

でも、母のように、

酔っぱらっても、わたしを叱りつけたりはしない。

優しく接してくれていた。

 

母に怒られてばかりのわたしを、同情していたように思う。

 

母がいない時は、こっそり料理を作って食べさせてくれた。

小学校の遠足の日には、お弁当も作ってくれた。

とっても、美味しかった。

 

義理の父②の、両親も兄弟も、九州に住んでいるが、

大阪に住んでる兄が一人いて、時々遊びに来てくてた。

 

なぜだか、とっても、わたしを可愛いがってくれた。

子どもが好きな人だったのかもしれない。

独身で子どもがいないので、弟に義理とはいえ子どもができたので、

可愛く思ってくれたんだろう。

 

わたしの、義理のおじさんとなる人。

そのおじさんは、来る度に、本屋さんに連れて行ってくれて、『本』を5冊毎回買ってくれた。

 

この頃のわたしは、『昆虫』が好きだった。

虫が、友だち。

草むらで、虫を見つけて、捕まえて虫かごに入れる。

 

虫かごの虫は、わたしそのものだったのかもしれない、

自由を奪われて、かごに押し込められて、逃げられない、

悲しくても泣けない虫、

わたしと同じ。

 

義理のおじさんに、昆虫図鑑をねだって買ってもらった。

でも、

実は、母から、『もう、おじさんから本を買って貰ったらあかん!』と強くいわれていた。

 

いつものわたしなら、言いつけを守っていたはずか、

まだ、子どもなんです。

 

おじさんが、優しくて良い人で、わたしのわがままを聞いてくれるから、

わたしは調子にのってしまった。

 

虫の図鑑を嬉しそうに、おじさんと一緒に家に持って帰った。

そのときに、おじさんは、わたしの大好きなショートケーキも買ってくれた。

 

嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

 

でも、家に帰って、扉を開けた瞬間の、母の顔(今でも目に焼き付いている)

怖い鬼、

 

その場では怒らない。

それが、また怖かった。

そして、わたしの側に寄って来て、

耳元で、『後から覚えておきない!』と、こっそりいい放った、

 

怖かった、

恐怖を感じた

おじさんが帰ったら、わたしは殺されるのかもしれないとまで、思った

 

ショートケーキがお皿にのってたけど、

手もつけれない。

 

そして、おじさんが帰る時間となった。

 

どれほど、帰ってほしくない、助けてほしいと、心の中で叫んだか、

 

でも、おじさんには伝わるわけもない。

 

怒られる、殴れる、また、放り出される

それだけでは、今度はすまないだろう、

 

逃げるしかないと思った。

家を出た。

 

でも、小学校の低学年の児童が一人、行くあてなんて何処にもない。

 

大おばさんに、迷惑かけれないし。

 

そんな時、近所に建築現場の小さな小屋があった。

そこなら、雨風はしのげるし、寝ることもできる。

食べるものはないけど、葉っぱでも食べたら良い、と思った。

浅はかな子供の考え、

 

どんどん夜が更けていく。

 

寒くなってくる。怖くなってくる。

寂しくなってきた。

わたしは、なぜこんなに不幸なんだろう、なんで普通のおうちの子供みたいに可愛がって貰えないのだろ、

 

涙が溢れる、

 

そんな時、外からわたしを呼ぶ声が聞こえた。

 

たくさんの大人がわたしを探している。

警察の人もその中にいた。

 

もしかしたら、警察の人が助けてくれるのかも、しれないと期待したわたし。

 

この時代には、『幼児虐待とか、保護とか、児童相談者とか』

わたしを助けて貰える制度なんて、何一つなかった。

 

警察官は、母が捜索届けを出したから動いていたよう。

 

それを知らず、外に出てしまった。

 

母が、わたしを見て、『よかったあー』と、涙を流していた。

嘘の涙。←この涙を、大人になるまでに何度見ただろう、

 

警察官に、母の元に引き渡されてた、

 

そのあとのわたし、

 

記憶がない。

(みゆきちゃんは、人形になりきれたんだろう、辛かったね、本当によく耐えてくれたと思う、)

 

そして、この後…おじさんは来なくなった。

 

 

小学校3年生の頃のわたし

 

義理の父②が、大好きになっていた。

母に怒られると、この父が隠れてこっそり慰めてくれたから。

 

この頃には、この父も、母から罵声を受け、喧嘩ばかりしていた。

子供のわたしには、詳しい理由はわからない。

 

父がね、仕事から帰る時間には、駅まで毎日歩いて迎えに行って、ホームから降りてくる父を見るのが楽しかった。

 

寒くなると日が暮れるのが早い。

父がいつもの時間の電車から降りてこない。

 

そんな時、優しく声をかけて着てくれたホームレス風のおじさんがいた。

 

わたしはすぐに仲良しになった。

この頃、人懐っこい子どもになっていた。親から相手にされず、虐待を受ける子は、

こんなふうに育つんだと思う。

 

このおじさん、悪い人だった。

草むらに連れて行かれて、悪戯をされた。

何をされたか、わからないけど、怖かったことしか覚えていない。

 

父の姿が見えるとおじさんは、すぐにその場からいなくなった。

 

父には、何も、言えなかった。

心配かけたり、悲しませたくなくて、

わたしの、こころに秘めることにしたんだと思う。

 

小学校4年生のわたし

 

担任の女の先生は、わたしの家庭のこと、気にかけてくれていた。

 

今思えば、家出して大騒ぎになったことを、学校が知っていたのかもしれない。

 

この頃、母は昼は病院に勤め、夜は義理の父②と一緒に小さな居酒屋を始めていた。

 

お店を開店してしばらく、大おばさんが、店の手伝いに上京していた。

嬉しかった。

 

大おばさんも、わたしに会いたいと思ってくれてたから、こんな母の言いなりになっていたんだと思う、

飲めないお酒も飲んで、歌を歌えと言われると、

 

うさぎ追いし、かの山~

こぶなつりし、かの川~

 

『故郷』

 

歌ってた。

この頃、ラジカセを持ってて、大おばさんの歌声をテープに録音して、

寂しくなると、聴いていた

大好きな人、大好きな歌になった。

大おばさんが来ると、同じ布団で寝てくれた。

嬉しくて嬉しくて涙が出て眠れなかったことを覚えている。

大おばさんも、泣いてた。

 

大おばさんは、大阪に上京するお金を作るために、パートで働いてくれてた。

感謝しかない。

 

この時は、一週間ほど、一緒に過ごせた。

お店が忙しいから、両親は帰って来なかったから、

ずっと、帰って来なくなったらいいのに、とも願ってたわたしがいた。

 

でも、願いは叶わず、大おばさんは滋賀に帰って行った。

 

それからは、昼も夜も一人だった。

一人が怖いと思う日もあったが、母に虐待を受けなくてすむので、

わたしは、また感情を棄てた人形になっていた。

 

ご飯は昼は給食を食べて、夜は、学校から帰ったら、母からの言い付け(洗濯、掃除、靴洗い等)をしてから、

母のお店(居酒屋)に行くと、一品とご飯がでてくる。

 

それを食べて、誰もいない家へひとりで帰る。

 

ネブレクト

近所の人たちは、知っていたと思うし、心配してくれていた。

 

母に気づかれるとわたしが怒られることをわかってて、こっそりと、声を掛けてくれたり、

おうちに入れてくれて、食べるものを与えてくれた。

 

同じ階のマンションに住んでいた、おうちの若くて綺麗なおばさん。

3才くらいの男の子が一人いた。

とっても可愛いかったので、わたしから声を掛けて遊んであげた。

おばさん、とても喜んでくれて、わたしのことを気にかけてくれるようになった。

わたしの両親が、仕事でいない日は、家に入れてくれて、とっても美味しい料理や、おやつを食べさせてくれた。

 

温かい家族…

 

羨ましかった。

なぜ、わたしもここのおうちに生まれて来なかったんだろう、って

一人になると、また涙が溢れた。

 

母のお店にも、わたしのことを気にかけてくれた、お姉さんがいた。

優しくて可愛いお姉さんだった。

わたしがお店に行って、夕食を食べて、一人で帰ろうとすると、

こっそり、100円玉をを握らせてくれた。

この頃、食べ盛りで、お腹が減っていつも我慢していた。

お菓子が欲しくても、母から買って貰えること等ない。

お姉さんから、貰った100円で、駄菓子を買って食べた。

お菓子の袋は、見つからないように、外に捨てた。

 

わたしに、優しくする人に対して、

母は、気が狂うように怒ることをわたしはわかっていたので、

 

必死で、嘘をついたり、隠したりしていた。

 

それでも、子供のすることだから、バレてしまうと、

勿論、わたしはぶたれるし、外に放り出される。体の痛みは消えるので、我慢できる。

 

でも、この頃には、こころも成長してきていたので、

 

わたしに、親切に優しくしてくださる人たちへの、罵声や悪態が辛かった。

子供ながらに必死で守ろうとして嘘をつく。

 

そうすると、母がわたしを罵る。

 

『あんたは、親の言うことを訊かない悪い子だ。』

『嘘ばかりつく本当に悪い子だ!』

 

いつもいつも、『嘘つき、悪い子』と、親に言い続けられると、

 

こころが、痛むんだよ。

 

そして、自分は嘘つきで、悪い子だと思ってしまう。

 

 

いつもいつも、母の許しを買うために、

 

わたしのアダルトチルドレンみゆきちゃんは、

 

『ごめんなさい、ごめんなさい、

もうしません、

これからは、嘘をつかないし、ママのいうことをちゃんとききます』

 

を、繰り返してきたんよ。

 

 

みゆきちゃんのこころは、ボロボロだったよ。

 

あんたのせいで。

(あんた→偽母)

 

 

わたしの心に封印していたこと、

少しづつ、思い起こして書いてます。

 

やっぱり、今でもこの頃のことを思い出すと、

こころが熱くなります。

 

 

少し休憩、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの生い立ち②

地獄の日々の始まり

(偽りの家族)

 

 

小学校の入学を期に

 

 

母→毒親(偽母)

父→義理の父②番目

わたし

 

家族3人で大阪で、暮らすことになったみたい、

 

 

大おばさんの家で、幸せに生活していたのに、

目が吊り上がり、怖い怖い顔をした母に、手をひかれ、電車に乗せられて

 

大阪へ。

 

田舎でゆったりとのんびり育てられた、わたしは、人人人のせかせかした大阪に馴染む訳ない。

 

それに、大好きな大おばさんと、おじさんと、引き離されて、

ずっと泣いてた。

 

大おばさんも、おじさんも、泣いてた。

小さかったわたしには、なんでこうなるのか、全くわからず、

ただただ、泣くだけ。

 

泣くと、母は怒る。

怒ると、わたしはまた泣く。

ずっとずっと、繰り返していたと思う。

 

母は、泣き止ますために、愛情をくれなかった。優しく言い聞かせることも、優しく抱きしめて泣き止ませることもしない。

 

怒鳴りつけて、それでも泣き止まないと、ぶつ。

手で叩くと痛いからと、物で叩く。

今でもこの時のことを思い出すと、涙が出る。

母は、怖い怖い鬼、だった、

 

大阪に連れて来られ、マンションの3階に住んでいた。

泣き止まないと、外に放り出されることも、度々だった。

 

外に放り出される時は、逃げられないように、下着一枚で、靴は履かせない。

 

そして、最低1時間以上、

長い時は、3時間以上も、外に放り出されていた。

 

涙って、枯れるんよ、

泣きすぎると涙がでなくなる。

 

そして、空を見る。

夜空の星を見てると、

本当のお父さんが、助けに来てくれる妄想をみたり、

大おばさんと、おじさんと暮らした幸せな生活を思い出し妄想の中に入り込む。

 

冷たい階段に、泣き疲れて頭をつけて、寝てしまったこともあった。

小さいのに、死んだら、優しいお父さんに会えるかな、大おばさんの所に、飛んでいけるかな、だて、

マンションから飛び降りようと思ったこともあった。

 

一度、母の財布から、10円玉を3枚盗んで、ばれないように、ポケットに入れて、

 

放り出された時に、そのお金を握りしめ、

裸足で、公衆電話に走って行った。

 

そして、大おばさんの家に電話をした。

よく、番号を覚えていたと思う、

 

電話が、繋がった。

大おばさんが、でた。

 

わたしは必死で、

『もしもし、おばちゃん、助けて!迎えに来て!』

 

そう叫んだ。

電話は切れた。

 

30円なんて、市外電話だとあっと言う間に切れることなんて、知らなかった。

 

また、泣いた。

泣きながら、裸足で家に帰って、いつものように冷たい石の階段に座って、

許して家に入れて貰えるまで、待った。

 

母には、この時は、ばれなかった。

 

わたしを外に放り出している時は、

義理の父②と仲良くしている時間か、

お酒を飲むか、美味しい物を食べている時間だから、

わたしのことは気にならない。

 

でも、この電話のことは、ばれてしまった。

 

大おばさんが、心配になって、

翌日、電車に飛び乗り、わたしを助けようとやって来てくれた。

 

そのことで、母は狂ったように、わたしにも、そして大おばさんにも怒った。

 

大おばさんが泣いてた。

 

わたしは、この時、

あきらめることを覚えたと思う。

わたしのせいで、大おばさんが怒られたり、

悲しい思いをするなら、

わたしが、この鬼のような母の言いつけを

守り、良い子になることを選ぶしかないと悟ったと思う。

 

大おばさんが、大好きだったから、

 

このままだと、もう、会えなくなってしまう、とも思ったから。

 

それからは、助けを求めることはしなくなった。

泣くことも、我慢した。

 

それでも、母は、言葉づかいが悪い、姿勢が悪い、手伝いをしない悪い子、あんたは嘘つきや、とか

ことあるごとに、わたしの態度や行動に腹をたてて怒ったし、ぶった。

 

そして、外に放り出された。

 

誉められたことはない。

笑って話をしてくれたことはない。

わたしのご飯の食べ方を汚い!と言った。

わたしが、大皿にのっているおかずを取ったり、お鍋の中のおかずを取るとき、

いつも睨み付けられた。

箸でつつき合って食べるのを極端に嫌がったし、嫌った。

 

幼少の頃

いつも、怒られてる

記憶しか残っていない。

 

 

母は、お酒が好きで、よく飲んでいた。

酔っぱらうことも、たひたび。

酔うといつも以上に怒るので、お酒を飲むと、布団に入り寝たふりをした。

 

よく、外食した。

ついて行くのが嫌だった。

 

居酒屋、スナック、へ行くんよ。

ずっと、カウンターに座って、両親が飲み潰れるまで、待たされた。

 

眠たくなっても、寝れない。

 

大瓶のビールを、1ケース飲み干す。

同じことばかり、話して、

また飲む。

 

わたしは、帰ると言ってくれるまで、待つしかなかった。

 

 

でもね、

 

こんなことされてても、

母だと、思ってたから、許してたし、許せたんだよ。

 

でも、あなたは、わたしの本当の母ではなかった。

 

50年間、わたしを騙して支配を続けていたんよ。

今思えば、なるほど…

と、思うことばかり。

 

許せるわけないし、

そんな、あなたが怖くて仕方ないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの生い立ち①

大好きだった

『おんちゃんとおばちゃん』

 

 

母→毒親(偽母)

50年間、わたしを騙し続けた毒親

 

 

生まれてから、小学校に行くまで、母と遊んだり、一緒に過ごした記憶はない。

 

たまに、

 

年に一回くらいかな、

 

綺麗なハデな化粧と服を着た『おばさん』が、やってきた。

 

怖かった。すぐに怒る。

『しつけ』だと、いいながら、ぶつ。

 

笑った顔を見たことない。

お菓子やおもちゃもくれたことはない。

 

ただ、ただ、怒るか、ぶつか、

知らない男の人を連れてきたこともあった。

(2番目の義理の父となる人)

 

来て欲しくなかった。

このおばさんが来ると、わたしは大泣きしてた。

嫌いだ、大嫌いだ

 

でも、その頃、

わたしの面倒を見てくれてた『おばちゃん』が、悲しそうな顔で

 

『ママのいうことはちゃんと効かないとね』と、わたしを宥めてくれていた。

 

その姿を見ると、母はおばちゃんにも怒ってた。

 

『そんな言い方して、甘やかすから言うこと効かなくなるんや!』って。

 

その時のわたしは、おばちゃんの後ろに隠れていたと思う。

 

 

おばちゃん→ 大おばさん

母の、母の姉妹の、末っ子

(わたしのおばあちゃん妹)

おばあちゃんの姉妹は、13人ぐらいいたと言ってた。

おばあちゃんは長女だったと。

でも、わたしは会ったこともないし、写真も見たことない。

母もおおおばさんも、話題にもしない。

何かがあるのは、確かだけど、これもまたお蔵入り、

 

そして、このおばあちゃんの姉妹が、不思議なことに、結婚はしているが、

 

13人のうち、2人しか、子供ができなかった。

 

わたしの母と、もう一人のおばさん。

 

先祖で何か、悪いことがあったような話を聞いた記憶がある。

夢かもしれないが、

 

 

ただ、わたしが幸せな幼少期を過ごせたのは、すべてこのお陰だったと思う。

 

おばあちゃんの姉妹に子供ができなかったため、わたしは、『大おばさん』たちに、とっても可愛がって貰っていた。

 

大おばさんが、泣いているわたしを、背中におぶって、寝かしつけてくれる。

子守り歌を歌ってくれている。

それでも、わたしは泣き止まず、火がついたみたいに泣いている。

 

困り果てた、大おばさんが、もう一人の大おばさんに助けを求めて、その大おばさんが、わたしが、泣き止んで眠るまで、背中におぶって、子守り歌を歌ってくれる。

 

わたしが、生まれてから、思い起こせる最初の記憶が、この大おばさんたちの愛情に囲まれた幸せな時間。

 

それからは、大おばさん姉妹の、一番末の子(大おばさん→おばちゃん)

おばちゃん夫婦の住む、滋賀県で暮らしてた。

 

おばちゃん夫婦は、子供ができなかったので、わたしを本当の娘のように、可愛がってくれた。

 

おんちゃん

(おばちゃんの旦那さんをこう呼んでた)

 

おんちゃんは、国鉄勤務(JR)バスの車掌さんをしてた。

 

おばちゃんは、温厚で優しい。怒ることを知らない人。いつも、優しく笑って、わたしを見守ってくれてた。

 

美味しいご飯を作ってくれる。

わたしの好きなもの、いつも準備してくれる。

 

扁桃腺が、炎症を起こして、頻繁に高熱を出すわたしを、雪の中でも病院に連れて行ってくれて、看病をしてくれた。

 

ご飯が食べられなくなると、片栗粉を溶かして、砂糖を入れて、甘くして食べさせてくれた。

忘れられない味…

 

おんちゃんも、本当のお父さんのように、可愛がってくれた。

血の繋がりのない他人だったけど、身内以上だったと思う。

おんちゃんは、おばちゃんと違って、悪いことをしたわたしに対しては、怒った。

でも、それは本当の愛情だったと思う。

全くといって良いくらい、怒られることは当然だと、今でも思えるから。

 

叩いたり、外に追い出したり、

怒鳴りつけて、心をズタズタにしない。

 

何が悪いのか、ちゃんと説教して、しつけしてくれた。感謝、

 

おんちゃんに、すごく怒られたことがある。

小さすぎたので、どんな悪いことをしたかは覚えていない。

でも、おんちゃんが怒った顔は覚えている。

初めて、ほっぺをぶたれた、

おんちゃんの長くしてい小指の爪が、ぷった拍子に、わたしのほっぺを引っ掻いて、出血した。

おんちゃんは大慌てで、血を拭き取って、『ごめんね。』と抱き締めてくれた。

今も、ほっぺにうっすら傷が残っている。

 

おんちゃんは、女の子の顔をぷってケガさせたことに、すごく反省してくれてた、

それから、口で怒ることはあったけど、絶対にぶたないし、

小指の爪を伸ばすのもやめた。

 

女の子だから、オルガンを習わせてくれた。

おばちゃんの温かい手、いつも優しく握って歩いてくれた。

車も自転車も乗れないおばちゃんは、どこへ行くのも、わたしの手を離さず、ゆっくりと歩いてくれた。

 

雪が多いところだったから、寒くないように暖かい服を着せてくれた。

霜焼けができると、ずっと手をこすってくれてた。

 

自転車も買ってくれてね、乗れるまで、練習に付き合ってくれた。

 

わたしのこの頃の写真は、いつも幸せな笑顔をしていた。

 

でも、こんな幸せな時間は、続かなかった。

 

 

小学校に入る前、

 

毒親(偽母)が、義理の父②が現れ、わたしの幸せな生活は、一変

 

地獄の日々が始まった、

 

 

 

 

 

父と50年ぶりの再会⑩

宝石のような野菜

 

 

つづきを、書くのが止まってました。

 

心が、なかなか落ち着かず、

上がったり下がったりで、

50年間、ずっと会いたかった父に会えたのに、

じつは、義理の父だということがわかり、

混乱

 

(義理の父が、3人いるため、義理の父①と、書きます。)

 

義理の父①に対して、

『感謝』したり、

『恨んだり』を繰り返していて、

 

戻ってから、お礼の手紙を書くことに、

躊躇しています。

 

今は、心から

 

『ありがとう』

 

と、言えないので。

 

義理の父①は、わたしが、2才~今までどのように育ち、

どれほど辛い思いをしたかを、全く知りません。

 

知っているのは、

可愛かった赤ちゃんの時の、『みゆきちゃん』

 

そして、最近になって、突然会いたい…とやって来た

おばさんになった『わたし』の姿と、わたしの今の夫と、わたしの職業。

 

(義理の父①から、見た今のわたしは、仕事も安定し、普通に結婚して、孫にも囲まれ、幸せで、なに不自由ない生活を送っている印象だと思うし、

それ以上の関心もなかったように感じた。

ただ、会話の中で『よく非行に走らず真面目に育って』と、言った。

『そんなことないんだよ。』と言わなかったわたしもいるが…)

 

逆に、義理の父①の苦労話を聞いた。

 

自営業してたけど、、倒産して、多額の借金で夜逃げしてね~、

息子は仕事を転々として、最近離婚して、

福井県に戻ってきたたころでね~

自分は、癌があちこちに転移してて、明日もあるか、

とか、

 

わたしは、仕事柄もあって、義理の父①のこと、興味深く聞いたせいもあり、いろいろ話をしてくれた。

 

義理の父①も、もしかしたら、

わたしに興味があっても、

男の人だから、

なんでもかんでも、

聞いて失礼にならないかとか思っていたのかもしれない。

 

どぢらにしても、義理の父①を恨むより、

すべては、わたしの本当の母と

毒親(偽母)のせいで、

わたしと、義理の父①がこんな残酷で哀しすぎる対面をしている。

 

 

わたしと、義理の父①は、

 

初対面の

『赤の他人』

と同じですもん。

 

 

何も知らなかったとはいえ、義理の父①に申し訳ないことをしたとも思っている。

 

でも、義理の父①は、

わたしの出生の秘密をこれ以上は、語ってくれなかった。

わたしの本当の母を知らない、と言った。

しかし、わたしの出生届は、役場に提出したのは、この義理の父①だ。

 

後にわたし知ることになるが、

出生証明書を誰が書いたか知ってたはず。

なので、

 

ただ、わたしの毒親(偽母)から頼まれて仕方なく、わたしを自分の戸籍に入れた…は、おかしい。

 

なぜ、嘘をついてるんだろか、

 

わたしのこと、教えてよ。

わたしは、誰の子供で、何があったん?

叫びたくなる、

今もまだ、この衝動を押さえるのに、必死で生きてるわたしのこと考えてほしい。

 

 

でも、

義理の父①へ心から感謝したいこともある。

 

理由はわからないが、

おそらくだけど、わたしの本当の母は、わたしを生んだけど、育てることもできない環境にあった人。

貧困、親の反対、父がわからない子

死、病気、

 

このように、なんらかの事情はあったから、わたしをあげたか、売ったのでしょう。

 

そこで、気の毒だと思い、

わたしを戸籍に入れてくれた。

そのお陰で、わたしは無戸籍にならず、親に捨てられたことを知らないまま育って来れた。

 

それと、

 

再会した次の日の朝…

 

ホテルのスタッフの人から、

 

『お父さんから預かりものがあります。早朝6時に持って来てくれて、娘に渡してほしいと言われてました。』

 

って、

 

箱の中には、父が趣味で作っている『野菜』が、綺麗に詰め込まれていた。

 

ピカピカ光った野菜…

 

こんなに綺麗な野菜を見たことがない。

 

筆で書いたとても達筆なお手紙も添えられていた。

 

みゆきさんへ

昨日は遠いところ、会いに来てくれて、とても嬉しかった

素人が作った粗末なものだけど食べてください

 

と、書かれていた。

 

 

隣にいた夫が、この野菜と手紙を見て

 

泣いてた、

 

わたしも泣いた、

 

 

わたしが、生きてこれたらのは、

義理の父たち3人が、

 

哀れな女二人(わたしと、偽母)を助けてくれる優しいこころを持ち、

 

みんな温厚で、広い心をもった

『いい人』

ばかりたったからだと思った。

 

 

義理の父①は、今はどうしてるだろうか、

入院して手術をすると言ってた

とっても、気になって心配だけど

 

わたしは、他人だから、

ここで祈るしかない。

悲しい。

 

 

わたしの心から感謝を伝えられるように

心が安定したら、

 

恨み言を捨てて

 

 

感謝の手紙を書こうと思う。

 

 

なにより、野菜のお礼を書きたい。

 

全身癌で犯されてる身体で、

わたしのことだけを思って

朝早く摘みに行ってくれた

 

温かい気持ち、

 

本当に心から嬉しかったから。

 

 

こんなわたしのために、

ありがたかったよ。

 

 

つづく。

 

ぼちぼち書いてます☘️