虐待を受け続けた子の生きづらさ
子供の頃に虐待を受け続けて、心を支配された子は、何ひとつ自分で決定する力がなくなります。
それに、愛着障害を併発して、依存症にも苦しんだ結果、心が破壊してしまいます。
なかなか書きたくても、書けなかった私が苦しんだ思春期のこと…
少しづつ書いてみます。
思い出したくない過去ですが、今現在私のように苦しんでいる方が私のブログを読んで、共感するものがあれば、私みたいにズルズルと苦労ばかりを選択することはなくなるかと思います。そう願いたいです。
私も、早い段階で気づけるチャンスがあれば、私の子供達に幸せな家族を作ってあげれたのに…。
それだけが、私の後悔です。
私は、16才で家を出ることを選択しました。
高校は行きませんでした。受験すら受けてません。
中学で壮絶な虐めを受けました。
中学に入って、私の名字が変わったことが原因です。
母は、3番目の父と籍を入れ、周りに知られたくなかったため、家を購入して引っ越しを選択しました。
勿論、私も名字が変わり、転校先では新しい名前で紹介されました。
しばらくは、私だけが違和感になじもうと努力すればよかったんですが、
中学に入学した時、同じクラスに男子の転校生が入ってきました。
転校する前、同じ学校で同じくらすだった…Tくんです。
Tくんは最初は大人しく、私にも普通に話しかけてくれていましたが、少し仲良くなると私の前の名字を呼んでからかうようになっていきました。
そこに以上に反応してしまったのが、私です。
自分自信が受け入れていない名前で、からかわられるのが辛くて、必死で抵抗しました。
その時、初めて人に対して嫌なことを嫌だと言えたと思います。
でもその姿は、異常すぎたんだと思います。
どんどんからかう男子の数が増えて、最後は面白くなくなったのか、集団で無視をするようになりました。
それを見ていた女子も、私から離れていきました。一緒に行動すると虐められることわかってますから。
こんなことが、学校で起こっていても、私には誰にも相談する人がいませでした。
母は、私の話など聞くこともないし、もし聞いたとしてもすべて私が悪い…と言うでしょう。
耐えるしかないです。
家でも、学校でも、無視されるようになり、
孤独でした。
この頃にも毎日自殺を考えていたと思います。
でも、いつか優しい父が私を探し求めて、迎えに来てくれる…と空想してたから死なずに耐えれたと思います。
(今となれば、絶対にあり得ないことを信じていた子供の頃の私が哀しすぎます。)
私の場合は、家にも学校にも居場所がので、虐められても耐え続けて、学校に行くしか選択肢はありません。
毎日が苦痛でしたが、休むことなく通学してました。
異性を意識し始める年頃に、運動会で手を繋ぐダンスなんて最悪です。
私が手を出すと、汚いものを触るように指先だけ出されます。次の人もその次の人も…。
それでも、耐え続けていると変化は訪れます。
クラス変えで、私を虐めていた主犯の2人とクラスが変わりました。
それからは、少しづつ友達もできました。
でも、私の育った境遇では、両親が揃ってて大切に育てられた人とは友達になっても長続きできません。
たぶん、羨ましくて、自分を惨めに感じるからだったと思います。
そうなると、同じような境遇の友達と遊ぶようになります。
タバコを吸ったり、お酒を飲んだり、悪い先輩達と遊んだり。
髪を染めて、パーマあてて、
どんどん自分が変わっていきました。
学校に行く回数も減り、友達や彼氏の家に入り浸り、悪いと思っててもそこしか私の居場所はありませんでした。
その頃、その時の父や母ほとは一言も話すことなく、夕食(ご飯と豆腐だけ)を食べると自分の部屋に閉じ籠った日々が続きていました。
母も荒れて、酒浸りだったと思います。小さい頃のように、体罰やモラハラで支配できない年頃になった私をどうしようもなかったからだと思います。
私が反撃できるようになったんです。
母は、私を家から出す決心をしたようです。
このままなら、家が崩壊してしまうのを恐れたんでしょう。
知り合いの病院の院長に、住み込みで看護師見習いとして就職させることを頼み込んだみたいです。
私はその話を聞いた時、高校受験を止めました。これから、3年もこの家で暮らすことができないから。
そんな悲しい理由で、高校受験を諦めたんです。
病院に勤め始めてから恋愛依存症、パチンコ依存症を発症したこと、次に書こうと思います